多くの人が、礼拝は神がくださった人への贈り物だと考える代わりに、神を喜ばせるために人が行うものだと考えています。このような理解は、「神さまが私の礼拝を必要としているなんて信じ難い」と思うときに生じてしまいます。
確かに、礼拝は神が喜ばれるものです。しかし、このような考え方の何がいけないのでしょうか。それは、礼拝は私たちが神のために行うものというよりは、神との関係が壊れている人々を正しい関係へと招き、引き戻すための恵み深い手段として、人類が始まるその時から、神ご自身が始められた、ということです。礼拝は、隠れている者への招待状、重荷を負っている者にとっては物事をさらけ出す機会、沈黙が破られた者への会話、交わりのない者への喜びの食事、内側に閉じ込められた者にとっての目的ある外側の人生なのです。これが、招詞(礼拝への招き)、罪の告白、そして宣言されたみことばに耳を傾け、主の食卓で喜びを受け、そこから祝祷とともに世に送り出されるまでの一連の礼拝の流れです。
以下は、昨年書いた記事ですが、罪を犯し、園に隠れていたアダムとエバが、神と交わした会話についてです。この会話は、通常否定的に捉えられる箇所でありますが、同時に男と女への贈り物でもあると言えます。
最初の典礼
男と女は禁じられていた果実を食べました。二人は自分が裸であることに気付き、葉っぱで体を覆いました。すると、主が園を歩く音が聞こえ、二人は身を隠しました。
これが、男と女の置かれた状況です。これは、最初の日から変わっていません。神とその民の関係に罪が入り込み、その結果、関係が壊れてしまったのです。神の民は恥じらいを感じ、創造主から身を隠しています。彼らは自分自身で身を覆い隠そうと、自分の業に精を出しますが、めちゃくちゃな状態です。
悪魔との「会話」によってこの世に罪が入り込んだように、その関係を回復するための神の最初の行動が、神の民との「会話」であることは何かの間違いではありません。
その会話を要約してみると、簡単な流れや順序があることがわかります。
(7-8節 人間が葉っぱの服を着て隠れている)
Vs9 神が男を呼ぶ
Vs11 神は尋ね、男は告白する(責める)
14-19節 神が彼らに語りかける
21節 神は彼らに服を着せる
22節 彼らが命の木を食べないように
23節 土を耕すために送り出される(暗に、人は神から与えられた衣服に身を包んで去っていきます)
この対話を典礼用語で表現すると、私たちの前に、招詞(礼拝への招き)、罪の告白、説教、聖餐式、そして祝祷があります1。これは、罪深い人々が神から隠れ、自分の業で自分を覆い隠すところから、神に与えられた衣を着て、神の元を離れ、世の中で働くという目的を成した対話です。このシンプルな流れは、伝統的な礼拝の順序に沿っており、礼拝の目的、すなわち、人々が神の御前に出て、神との関係を新しくすることを理解するのに役立ちます。カリスマ的な背景を持つ人は、伝統的な礼拝を見て、なぜこんなに立ったり座ったりひざまずいたりするのだろうかと思うことがあります。多くの人は、礼拝の間、自分たちがすることがいかに多いかを指摘します。礼拝はコーヒーと聖書を片手にくつろぐような場所である代わりに、神との対話に積極的に参加する場所なのです2。
招詞(礼拝への招き)は、神ご自身から来るのであり、神から隠れている罪人への贈り物です。私たちは隠れるのをやめて、神の御前に出てくるよう求められています。毎週のように詩篇から読み上げられる「招詞」を聞いていると、この意味するところを見落としがちです。なぜなら、罪人である私たちに対して、神ご自身が御前に出て来るよう、招いてくださっているからです。私たちにはこのような素晴らしい賜物が与えられているのです3。
招詞に続く罪の告白も、神の導きによるものです。神はアダムとエバに問いかけ、罪を告白する機会を与えました。しかし、悲しいことに、男と女は告白する時間よりも、責め合う時間の方が長くなってしまいました。私たちは、自分の罪を他人のせいにすることはできません。私たちは皆、自分の行動だけでなく、他人に対する反応の上にさえも責任があるのです。牧師が自分の教会を、教会が自分たちの中にいる人を責めるのは簡単ですが、私たちは皆、一緒に主の前で自分の罪を告白することを学ばなければなりません。その時、私たちは皆、同じ土俵に立つのです。誰も上に立たず、誰も下に立たず、私たちは皆、主の前にひざまずいて自分の罪を告白するのです。これで初めて、私たちは主の言葉を聞く準備ができたのです。
説教は告白の後に行われます。神は悪魔に語りかけ、次に女に語りかけ、そして男に語りかけました。呪いの言葉が語られ、その中で、私たちは救い主の最初の約束、すなわち、打たれても蛇の頭を砕くという救世主の約束を与えられます。「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷をしてつながれていた人々を解放するためでした」とヘブル人への手紙2章14−15節はキリストの御業について語っています。
罪の告白によって、男と女はさらけ出され、主のみことばを受けました。主は彼らをそのままにしておかず、今度は人間の手で作ったものではなく、動物の毛皮で覆われました。神は動物を殺し、それが最初の犠牲となって、私たちをキリストへと向けてくださいます。私たちが作るどんな服も、自分の罪を覆い隠すことはできません。私たちが行うどんな偉大な業績も、神の受け入れに値するものではありません。御父に喜ばれるのは御子だけです。世の罪を取り除く神の子羊、イエス・キリストによってのみ、私たちは覆われるのです。
いのちの木は隠されました。なぜ秘密にされているのでしょうか?それは、人間が堕落した状態で永遠に生き続けることがないようにするためです。言い換えれば、それは彼らのために隠されれたのです。戒めでもありますが、それと同時に彼らの永遠の善のためなのです。教会の訓戒は決して一般的な概念ではありませんが、必要とされる行為です。教会が訓戒を実行するとき、それは意地悪ではなく、神から出たことなのです。罪人を思い、永遠の益のために行われるのです。悔い改めないで生きる信徒から聖餐を控えてもらう (excommuning) のは、その人が悔い改めに導かれるために行われる行為であり、教会が責任を持って行う、愛の行為なのです。
この後、男女は園から追い出されます。男は土地を耕します。祝祷は、典礼の聖餐式に続きます。私たちは神の祝福を受け、神の国の代理人として世界で働くために送り出されるのです。典礼をお通して、国々をどのように祝福するのかを学ぶことができます。神は私たちを家に招き入れ、清め、語りかけ、食事を与え、祝福されて送り出します。これは、おもてなしのモデルと言えます。典礼は、人々との関係を回復させる方法を教えてくれます。私たちは人を招き入れ、告白し、できれば食事を共にしながらコミュニケーションをとる必要があります。もし、夫婦が互いに近づきたいと願うなら、どうすればいいのでしょうか。心を開き、相手の話を聞き、語り合うことでその道は開かれます。
アダムとエバは、自分たちの作品に身を包み、恥の中に隠れて会話を始めました。しかし、アダムとエバは、神から与えられた衣を身にまとい、未来の救い主を約束され、その場を去りました。
礼拝は大切であり、礼拝の方法も重要です。礼拝は神と人との対話であり、罪深い人々への贈り物であり、イエス・キリストを通して創造主との新たな交わりへと導くものです。私たちの礼拝は、神との関係だけでなく、私たちを取り巻く世界との関係も形作ります。どのような礼拝であっても、週ごとに何らかの順序があります。神がなされたアダムとエバとのシンプルな会話は、私たちの計画に目的と形を与えてくれます。
もちろん、これは完璧な典礼ではありません。命の木は、彼らから隠されました。彼らは神の前に居たにもかかわらず、戻ることができませんでした。戻る道には、剣と火の中を潜る必要がありました。誰が主の山に登ることができるでしょうか。誰がその門を通ることができるのでしょうか。誰が剣と焼き尽くす炎に耐えることができるのでしょうか。死を通り、再びよみがえり、主の聖所に入り、主の臨在といのちの木へとつなげることのできる偉大なアダムが必要です。神をたたえましょう。キリストは死んでよみがえられました!道は開かれています!私たちはイエスを通して神に近づきましょう!4 神の民と共に、主の臨在の中で食べて喜びましょう!
Alan Ludwig(ルーテル派)とPeter Leithart(長老派)に従って、この物語の中に基本的な典礼の形があると見ています。Ludwigの論文の冒頭をご覧ください(下記参照):
http://www.ctsfw.net/media/pdfs/LudwigLiturgicalShapeoftheOTGospel.pdf
中世の教会の礼拝は、悲しいかな、司祭のパフォーマンスであり、人々は観客としてそれを見ているようなものでした。悲しいことに、この誤りは再び忍び寄り、今日の礼拝は多かれ少なかれ、コンサートや劇場への旅行のようなものとなっています。
キリストが罪人のために死なれたことは、慰めに満ちた福音の真理です。バスに「優先座席」と書いてあると、特定の障がい者が座れるのと同じように、一般的な呼びかけは特定の適応を可能にしてくれます。座席は空席です。「罪人優先席」と書いてあります。あなたはキリストの中に休息を得ますか?
ヘブル10:19-22